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Capítulo 5 de 122

正法眼藏第三 佛性 · 2

いはくの宗旨は、是は佛性なりとなり。何のゆゑに佛なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき佛性なり。しかあればすなはち是は何なり、佛なりといへども、脱落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏に相似ならず、傍觀に齊肩ならんや。

四祖いはく、汝無佛性。

いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無佛性なりと開演するなり。しるべし、學すべし、いまはいかなる時節にして無佛性なるぞ。佛頭にして無佛性なるか、佛向上にして無佛性なるか。七通を逼塞することなかれ、八達を摸𢱢することなかれ。無佛性は一時の三昧なりと修習することもあり。佛性成佛のとき無佛性なるか、佛性發心のとき無佛性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、佛性をしても問取せしむべし。

しかあればすなはち、無佛性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に擧揚す。無佛性の道、かならず精進すべし、趦趄することなかれ。無佛性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり。

五祖いはく、佛性空故、所以言無。

あきらかに道取す、空は無にあらず。佛性空を道取するに、半斤といはず、八兩といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、佛性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片片は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は、色卽是空の空にあらず。色卽是空といふは、色を強爲して空とするにあらず、空をわかちて色を作家せるにあらず。空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、佛性無と佛性空と佛性有と、四祖五祖、問取道取。

震旦第六祖曹谿山大鑑禪師、そのかみ黄梅山に參ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。

六祖いはく、嶺南人なり。

五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。

六祖いはく、作佛をもとむ。

五祖いはく、嶺南人無佛性、いかにしてか作佛せん。

この嶺南人無佛性といふ、嶺南人は佛性なしといふにあらず、嶺南人は佛性ありといふにあらず、嶺南人、無佛性となり。いかにしてか作佛せんといふは、いかなる作佛をか期するといふなり。

おほよそ佛性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および經論師のしるべきにあらず。佛祖の兒孫のみ單傳するなり。佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず、成佛よりのちに具足するなり。佛性かならず成佛と同參するなり。この道理、よくよく參究功夫すべし。三二十年も功夫參學すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有佛性、衆生無佛性と道取する、この道理なり。成佛以來に具足する法なりと參學する正的なり。かくのごとく學せざるは佛法にあらざるべし。かくのごとく學せずば、佛法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成佛をあきらめず、見聞せざるなり。このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無佛性と爲道するなり。見佛聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無佛性なり。或從知識、或從經卷するに、きくことのよろこぶべきは衆生無佛性なり。一切衆生無佛性を、見聞覺知に參飽せざるものは、佛性いまだ見聞覺知せざるなり。六祖もはら作佛をもとむるに、五祖よく六祖を作佛せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無佛性といふ。しるべし、無佛性の道取聞取、これ作佛の直道なりといふことを。しかあれば、無佛性の正當恁麼時すなはち作佛なり。無佛性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作佛せざるなり。

六祖いはく、人有南北なりとも、佛性無南北なり。この道取を擧して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作佛すとも、佛性は作佛すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。

四祖五祖の道取する無佛性の道得、はるかに㝵礙の力量ある一隅をうけて、迦葉佛および釋迦牟尼佛等の諸佛は、作佛し轉法するに、悉有佛性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無佛性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無佛性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ佛性と問取すべし、なにものかこれ佛性とたづぬべし。いまの人も、佛性とききぬれば、いかなるかこれ佛性と問取せず、佛性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無佛性の無に學すべし。六祖の道取する人有南北、佛性無南北の道、ひさしく再三撈摝すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北佛性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、佛性は虛融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤學すべし。

六祖示門人行昌云、無常者卽佛性也、有常者卽善惡一切諸法分別心也。(六祖、門人行昌に示して云く、無常は卽ち佛性なり、有常は卽ち善惡一切諸法分別心なり。)

いはゆる六祖道の無常は、外道二乘等の測度にあらず。二乘外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮盡すべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著、行著、證著せんは、みな無常なるべし。今以現自身得度者、卽現自身而爲説法(今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、卽ち自身を現じて而も爲に法を説く)なり、これ佛性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。常凡聖ならんは、佛性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。佛者小量身也、性者小量作也。このゆゑに六祖道取す、無常者佛性也(無常は佛性なり)。

常者未轉なり。未轉といふは、たとひ能斷と變ずとも、たとひ所斷と化すれども、かならずしも去來の蹤跡にかかはれず、ゆゑに常なり。

しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち佛性なり。人物身心の無常なる、これ佛性なり。國土山河の無常なる、これ佛性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提これ佛性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆゑに佛性なり。もろもろの二乘の小見および經論師の三藏等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外の類なり。

第十四祖龍樹尊者、梵云那伽閼刺樹那。唐云龍樹亦龍勝、亦云龍猛。西天竺國人也。至南天竺國。彼國之人、多信福業。尊者爲説妙法。聞者逓相謂曰、人有福業、世間第一。徒言佛性、誰能覩之。(第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那と云ふ。唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛と云ふ。西天竺國の人なり。南天竺國に至る。彼の國の人、多く福業を信ず。尊者、爲に妙法を説く。聞く者、逓相に謂つて曰く、人の福業有る、世間第一なり。徒らに佛性を言ふ、誰か能く之を覩たる。)

尊者曰、汝欲見佛性、先須除我慢。(汝佛性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし。)

彼人曰、佛性大耶小耶。(佛性大なりや小なりや。)

尊者曰く、佛性非大非小、非廣非狹、無福無報、不死不生。(佛性大に非ず小に非ず、廣に非ず狹に非ず、福無く報無く、不死不生なり。)

彼聞理勝、悉廻初心。(彼、理の勝たることを聞いて、悉く初心を廻らす。)

尊者復於座上現自在身、如滿月輪。一切衆會、唯聞法音、不覩師相。(尊者、また坐上に自在身を現ずること、滿月輪の如し。一切衆會、唯法音のみを聞いて、師相を覩ず。)

於彼衆中、有長者子迦那提婆、謂衆會曰、識此相否。(彼の衆の中に、長者子迦那提婆といふもの有り、衆會に謂つて曰く、此の相を識るや否や。)

衆會曰、而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所住。(衆會曰く、而今我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し。)

提婆曰、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虛明。(此れは是れ尊者、佛性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る。蓋し、無相三昧は形滿月の如くなるを以てなり。佛性の義は廓然虛明なり)

言訖輪相卽隱。復居本座、而説偈言、(言ひ訖るに、輪相卽ち隱る。また本座に居して、偈を説いて言く、)

身現圓月相、

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正法眼藏第三 佛性 · 2 · Shōbōgenzō (Tesoro del ojo del verdadero Dharma) — Dōgen · The Conscious Library