Capítulo 6 de 122
正法眼藏第三 佛性 · 3
以表諸佛體、
説法無其形、
用辯非聲色。
(身に圓月相を現じ、以て諸佛の體を表す、説法其の形無し、用辯は聲色に非ず。
しるべし、眞箇の用辯は聲色の卽現にあらず。眞箇の説法は無其形なり。尊者かつてひろく佛性を爲説する、不可數量なり。いまはしばらく一隅を略擧するなり。
汝欲見佛性、先須除我慢。この爲説の宗旨、すごさず辨肯すべし。見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また萬差なるべし。しかあれども、これらみな見佛性なり。眼見目覩にならふべし。
佛性非大非小等の道取、よのつねの凡夫二乘に例諸することなかれ。偏枯に佛性は廣大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正當恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聽取するがごとく思量すべきなり。思量なる聽取を使得するがゆゑに。
しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる身現圓月相、以表諸佛體なり。すでに諸佛體を以表しきたれる身現なるがゆゑに圓月相なり。しかあれば、一切の長短方圓、この身現に學習すべし。身と現とに轉疎なるは、圓月相にくらきのみにあらず、諸佛體にあらざるなり。愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを圓月相といふとおもふは、佛道を相承せざる黨類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ圓月相現なり。身現は方圓にあらず、有無にあらず、隱顯にあらず、八萬四千蘊にあらず、ただ身現なり。圓月相といふ、這裏是甚麼處在、説細説麤月(這裏是れ甚麼の處在ぞ、細と説き、麤と説く月)なり。この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸佛體なり。以表するがゆゑに諸佛體を透脱す。しかあるがゆゑに、佛邊にかかはれず。佛性の滿月を形如する虛明ありとも、圓月相を排列するにあらず。いはんや用辯も聲色にあらず、身現も色身にあらず、蘊處界にあらず。蘊處界に一似なりといへども以表なり、諸佛體なり。これ説法蘊なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。一衆いま圓月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の轉機なり、現自在身の非聲色なり。卽隱、卽現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上現自在身の正當恁麼時は、一切衆會、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり。
尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに滿月相を識此し、圓月相を識此し、身現を識此し、諸佛性を識此し、諸佛體を識此せり。入室瀉缾の衆たとひおほしといへども、提婆と齊肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆會の導師なり、全座の分座なり。正法眼藏無上大法を正傳せること、靈山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。龍樹すでに佛祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼藏を正傳す。これ無上佛道の單傳なり。しかあるに、僭僞の邪群、ままに自稱すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり。論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の、人天を惑亂するなり。佛弟子はひとすぢに、提婆の所傳にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるべきなり。これ正信得及なり。しかあるに、僞なりとしりながら稟受するものおほかり。謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。
迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆會につげていはく、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虛明(此れは是れ尊者、佛性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形滿月の如くなるを以てなり。佛性の義は、廓然として虛明)なり。
いま天上人間、大千法界に流布せる佛法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、身現相は佛性なりと。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。餘者はただ、佛性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は佛性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。無相三昧の形如滿月なるを望見し禮拜するに、目未所覩なり。佛性之義、廓然虛明なり。
しかあれば身現の説佛性なる、虛明なり、廓然なり。説佛性の身現なる、以表諸佛體なり。いづれの一佛二佛か、この以表を佛體せざらん。佛體は身現なり、身現なる佛性あり。四大五蘊と道取し會取する佛量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸佛體といふ、蘊處界のかくのごとくなるなり。一切の功徳、この功徳なり。佛功徳はこの身現を究盡し、囊括するなり。一切無量無邊の功徳の往來は、この身現の一造次なり。
しかあるに、龍樹提婆師資よりのち、三國の諸方にある前代後代、ままに佛學する人物、いまだ龍樹提婆のごとく道取せず。いくばくの經師論師等か、佛祖の道を蹉過する。大宋國むかしよりこの因緣を畫せんとするに、身に畫し心に畫し、空に畫し、壁に畫することあたはず、いたづらに筆頭に畫するに、法座上に如鏡なる一輪相を圖して、いま龍樹の身現圓月相とせり。すでに數百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、萬事の蹉跎たることかくのごときなる。もし身現圓月相は一輪相なりと會取せば、眞箇の畫餠一枚なり。弄他せん、笑也笑殺人なるべし。かなしむべし、大宋一國の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。圓月にくらし、滿月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。古佛新佛、さらに眞箇の身現にあうて、畫餠を賞翫することなかれ。
しるべし、身現圓月相の相を畫せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髓正法眼藏、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作佛作祖するがゆゑに。この畫いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、聲色なし、用辯なきなり。もし身現をもとめば、圓月相を圖すべし。圓月相を圖せば、圓月相を圖すべし、身現圓月相なるがゆゑに。圓月相を畫せんとき、滿月相を圖すべし、滿月相を現すべし。しかあるを、身現を畫せず、圓月を畫せず、滿月相を畫せず、諸佛體を圖せず、以表を體せず、説法を圖せず、いたづらに畫餠一枚を圖す、用作什麼(用て什麼にか作ん)。これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は圓形なり、圓は身現なり。圓を學するに一枚錢のごとく學することなかれ、一枚餠に相似することなかれ。身相圓月身なり、形如滿月形なり。一枚錢、一枚餠は、圓に學習すべし。
予、雲遊のそのかみ、大宋國にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山廣利禪寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の變相を畫せるをみる。このとき領覽なし。のちに寶慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、
予、知客にとふ。這箇是什麼變相(這箇は是れ什麼の變相ぞ)。
知客いはく、龍樹身現圓月相(龍樹の身現圓月相なり)。かく道取する顔色に鼻孔なし、聲裏に語句なし。
予いはく、眞箇是一枚畫餠相似(眞箇に是れ一枚の畫餠に相似せり)。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏無刀、破畫餠不得(笑裏に刀無く、畫餠を破すること不得)なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、數番擧揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他無鼻孔、對不得。如何得知(他は鼻孔無し、對へ得じ。如何でか知ることを得ん)。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も會すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、畫することうべからざらん法はすべて畫せざるべし。畫すべくは端直に畫すべし。しかあるに、身現の圓月相なる、かつて畫せるなきなり。
おほよそ佛性は、いまの慮知念覺ならんと見解することさめざるによりて、有佛性の道にも、無佛性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと學習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて佛性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聽教のともがら佛性を談ず、參禪の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、眞箇是畜生なり。なにといふ魔黨の、わが佛如來の道にまじはりけがさんとするぞ。聽教といふことの佛道にあるか、參禪といふことの佛道にあるか。いまだ聽教參禪といふこと、佛道にはなしとしるべし。
杭州鹽官縣齊安國師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有佛性。
いはゆる一切衆生の言、すみやかに參究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。凡夫外道、三乘五乘等、おのおのなるべし。いま佛道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有佛性なり。草木國土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有佛性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有佛性なり。國師の道取する有佛性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、佛道に道取する有佛性にあらざるなり。いま國師の道取する宗旨は、一切衆生有佛性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有佛性にあらざるべし。しばらく國師にとふべし、一切諸佛有佛性也無(一切諸佛、有佛性なりや也無や)。かくのごとく問取し、試驗すべきなり。一切衆生卽佛性といはず、一切衆生、有佛性といふと參學すべし。有佛性の有、まさに脱落すべし。脱落は一條鐵なり、一條鐵は鳥道なり。しかあれば、一切衆生有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、佛性をも説透するなり。國師たとひ會得を道得に承當せずとも、承當の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから會得せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髓もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。
大潙山大圓禪師、あるとき衆にしめしていはく、一切衆生無佛性。
これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釋尊説道は一切衆生悉有佛性なり、大潙の説道は一切衆生無佛性なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得の當不、うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無佛性のみ佛道に長なり。鹽官有佛性の道、たとひ古佛とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一條拄杖兩人舁なるべし。
いま大潙はしかあらず、一條拄杖呑兩人なるべし。いはんや國師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は、師翁の道に老大なり、法子は、師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、一切衆生無佛性を理致とせり。いまだ曠然繩墨外といはず。自家屋裏の經典、かくのごとくの受持あり。さらに摸𢱢すべし、一切衆生なにとしてか佛性ならん、佛性あらん。もし佛性あるは、これ魔黨なるべし。魔子一枚を將來して、一切衆生にかさねんとす。佛性これ佛性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより佛性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、佛性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公醉(張公酒を喫すれば李公醉ふ)といふことなかれ。もしおのづから佛性あらんは、さらに衆生あらず。すでに衆生あらんは、つひに佛性にあらず。
このゆゑに百丈いはく、説衆生有佛性、亦謗佛法僧。説衆生無佛性、亦謗佛法僧。(衆生に佛性有りと説くもまた佛法僧を謗ず。衆生に佛性無しと説くもまた佛法僧を謗ずるなり)。しかあればすなはち、有佛性といひ無佛性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。
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