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Capítulo 4 de 122

正法眼藏第三 佛性 · 1

釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易。

これ、われらが大師釋尊の師子吼の轉法輪なりといへども、一切諸佛、一切祖師の頂𩕳眼睛なり。參學しきたること、すでに二千一百九十年[當日日本仁治二年辛丑歳]正嫡わづかに五十代[至先師天童淨和尚]、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の佛祖、ともに住持せり。

世尊道の一切衆生、悉有佛性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼來(是れ什麼物か恁麼に來る)の道轉法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は佛性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正當恁麼時は、衆生の内外すなはち佛性の悉有なり。單傳する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに。

しるべし、いま佛性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は佛語なり、佛舌なり。佛祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや緣有妄有ならんや。心境性相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄緣起にあらず、法爾にあらず、神通修證にあらず。もし衆生の悉有、それ業増上および緣起法爾等ならんには、諸聖の證道および諸佛の菩提、佛祖の眼睛も、業増上力および緣起法爾なるべし。しかあらざるなり。盡界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休(直に根源を截るも未だ識らず、忙忙たる業識幾時か休せん)なるがゆゑに。妄緣起の有にあらず、徧界不曾藏のゆゑに。徧界不曾藏といふは、かならずしも滿界是有といふにあらざるなり。徧界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亙古亙今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼來のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を會取することかくのごとくなれば、悉有それ透體脱落なり。

佛性の言をききて、學者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を佛性の覺知覺了とおもへり。たれかいふし、佛性に覺知覺了ありと。覺者知者はたとひ諸佛なりとも、佛性は覺知覺了にあらざるなり。いはんや諸佛を覺者知者といふ覺知は、なんだちが云云の邪解を覺知とせず、風火の動靜を覺知とするにあらず、ただ一兩の佛面祖面、これ覺知なり。

往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を佛性の知覺とおもへる、あはれむべし、學道轉疎なるによりて、いまの失誤あり。いま佛道の晩學初心、しかあるべからず。たとひ覺知を學習すとも、覺知は動著にあらざるなり。たとひ動著を學習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし眞箇の動著を會取することあらば、眞箇の覺知覺了を會取すべきなり。佛之與性、達彼達此(佛と性と、彼に達し、此に達す)なり。佛性かならず悉有なり、悉有は佛性なるがゆゑに。悉有は百雜碎にあらず、悉有は一條鐵にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに佛性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、佛性と齊肩すべからず。

ある一類おもはく、佛性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽莖生長し、枝葉花果もすことあり。果實さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心なりと參究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根莖等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根莖枝葉みな同生し同死し、同悉有なる佛性なるべし。

佛言、欲知佛性義、當觀時節因緣、時節若至、佛性現前。(佛性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因緣を觀ずべし。時節若し至れば、佛性現前す。)

いま佛性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、證せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説、行、證、忘、錯、不錯等も、しかしながら時節の因緣なり。時節の因緣を觀ずるには、時節の因緣をもて觀ずるなり、拂子拄杖等をもて相觀するなり。さらに有漏智、無漏智、本覺、始覺、無覺、正覺等の智をもちゐるには觀ぜられざるなり。

當觀といふは、能觀所觀にかかはれず、正觀邪觀等に準ずべきにあらず、これ當觀なり。當觀なるがゆゑに不自觀なり、不他觀なり、時節因緣聻なり、超越因緣なり。佛性聻なり、脱體佛性なり。佛佛聻なり、性性聻なり。

時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、佛性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に佛性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、參師問法するにも、辨道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。いはゆる欲知佛性義は、たとへば當知佛性義といふなり。當觀時節因緣といふは、當知時節因緣といふなり。いはゆる佛性をしらんとおもはば、しるべし、時節因緣これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我佛性來(我れに佛性を還し來れ)なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は、既至といはんがごとし。時節若至すれば、佛性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ佛性の現前なり。あるいは其理自彰なり、おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、佛性の現前せざる佛性あらざるなり。

第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために佛性海をとくにいはく、

山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲發現。(山河大地皆依つて建立し、三昧六通茲に由つて發現す。)

しかあれば、この山河大地、みな佛性海なり。皆依建立といふは、建立せる正當恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、佛性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは佛性をみるなり、佛性をみるは驢腮馬觜をみるなり。皆依は全依なり、依全なりと會取し不會取するなり。

三昧六通由茲發現。しるべし、諸三昧の發現來現、おなじく皆依佛性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依佛性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明明百草頭、明明佛祖意なりと參究することなかれ。六神通に滯累せしむといへども、佛性海の朝宗に罣礙するものなり。

五祖大滿禪師、蘄州黄梅人也。無父而生、童兒得道、乃栽松道者也。初在蘄州西山栽松、遇四祖出遊。告道者、吾欲傳法與汝、汝已年邁、若待汝再來、吾尚遲汝。(五祖大滿禪師は、蘄州黄梅の人なり、父無くして生る、童兒にして道を得たり、乃ち栽松道者なり。初め蘄州の西山に在りて松を栽ゑしに、四祖の出遊に遇ふ。道者に告ぐ、吾れ汝に傳法せんと欲へば、汝已に年邁ぎたり。若し汝が再來を待たば、吾れ尚汝を遲つべし。)

師諾。遂往周氏家女托生。因抛濁港中。神物護持、七日不損、因收養矣。至七歳爲童兒、於黄梅路上逢四祖大醫禪師。(師、諾す。遂に周氏家の女に往いて托生す。因みに濁港の中に抛つ。神物護持して七日損せず。因みに收りて養へり。七歳に至るまで童兒たり、黄梅路上に四祖大醫禪師に逢ふ。)

祖見師、雖是小兒、骨相奇秀、異乎常童。(祖、師を見るに、是れ小兒なりと雖も、骨相奇秀、常の童に異なり。)

祖見問曰、汝何姓。(汝何なる姓ぞ。)

師答曰、姓卽有、不是常姓。(姓は卽ち有り、是れ常の姓にあらず。)

祖曰、是何姓。(是れ何なる姓ぞ。)

師答曰、是佛性。(是れ佛性。)

祖曰、汝無佛性。(汝に佛性無し。)

師答曰、佛性空故、所以言無。(佛性空なる故に、所以に無と言ふ。)

祖識其法器、俾爲侍者、後付正法眼藏。居黄梅東山、大振玄風。(祖、其の法器なるを識つて、侍者たらしめて、後に正法眼藏を付す。黄梅東山に居して、大きに玄風を振ふ。)

しかあればすなはち、祖師の道取を參究するに、四祖いはく、汝何性は、その宗旨あり。むかしは何國人の人あり、何姓の姓あり。なんぢは何姓と爲説するなり。たとへば吾亦如是、汝亦如是と道取するがごとし。

五祖いはく、姓卽有、不是常姓。

いはゆるは、有卽姓は常姓にあらず、常姓は卽有に不是なり。

四祖いはく是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也、何也なり。これを蒿湯にも點ず、茶湯にも點ず、家常の茶飯ともするなり。

五祖いはく、是佛性。

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正法眼藏第三 佛性 · 1 · Shōbōgenzō (Tesoro del ojo del verdadero Dharma) — Dōgen · The Conscious Library