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Capítulo 8 de 122

正法眼藏第三 佛性 · 5

趙州いはく、爲他有業識在(他に業識在ること有るが爲なり)。

この道旨は、爲他有は業識なり。業識有、爲他有なりとも、狗子無、佛性無なり。業識いまだ狗子を會せず、狗子いかでか佛性にあはん。たとひ雙放雙収すとも、なほこれ業識の始終なり。

趙州有僧問、狗子還有佛性也無。(趙州に僧有って問ふ、狗子にまた佛性有りや無や)。

この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、佛性の道取問取は、佛祖の家常茶飯なり。

趙州いはく、有。

この有の樣子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すすみて佛有を學すべし。佛有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は佛性有なり。

僧いはく、既有、爲甚麼却撞入這皮袋(既に有ならば、甚麼としてか却この皮袋に撞入する)。

この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。

趙州いはく、爲他知而故犯(他、知りて故に犯すが爲なり)。

この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかす、となり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋(庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや)なり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱體の行履を覆藏せるならん。これ撞入と説著するなり。脱體の行履、その正當覆藏のとき、自己にも覆藏し、他人にも覆藏す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、たとひ佛法邊事を學得する、はやくこれ錯用心了也。

しかあれば、半枚學佛法邊事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有佛性なるべし。

長沙景岑和尚の會に、竺尚書とふ、蚯蚓斬爲兩段、兩頭倶動。未審、佛性在阿那箇頭(蚯蚓斬れて兩段と爲る、兩頭倶に動く。未審、佛性阿那箇頭にか在る)。

師云く、莫妄想(妄想すること莫れ)。

書曰く、爭奈動何(動をいかがせん)。

師云く、只是風火未散(只是れ風火の未だ散ぜざるなり)。

いま尚書いはくの蚯蚓斬爲兩段は、未斬時は一段なりと決定するか。佛祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて兩段にあらず。一兩の道取、まさに功夫參學すべし。

兩頭倶動といふ兩頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、佛向上を一頭とせるか。兩頭の語、たとひ尚書の會不會にかかはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる兩段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智拔ともに動なるべきなり。

未審、佛性在阿那箇頭。佛性斬爲兩段、未審、蚯蚓在阿那箇頭といふべし。この道得は審細にすべし。兩頭倶動、佛性在阿那箇頭といふは、倶動ならば佛性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、佛性の所在は、そのなかにいづれなるべきぞといふか。

師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、兩頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ佛性は妄想なしといふか。佛性の論におよばず、兩頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも參究すべし。

動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに佛性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば佛性にあらざらんと道著するか。

風火未散といふは、佛性を出現せしむるなるべし。佛性なりとやせん、風火なりとやせん。佛性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち佛性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有佛性といはず、蚯蚓無佛性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。佛性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到來なり。説法の一音なる、到來の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。

又、佛性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有佛性なり、無佛性なり。死のときも有佛性なり、無佛性なり。風火の散未散を論ずることあらば、佛性の散不散なるべし。たとひ散のときも佛性有なるべし、佛性無なるべし。たとひ未散のときも有佛性なるべし、無佛性なるべし。しかあるを、佛性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。

無始劫來は、癡人おほく識神を認じて佛性とせり、本來人とせる、笑殺人なり。さらに佛性を道取するに、拕泥滯水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ佛性。還委悉麼(また委悉すや)。

三頭八臂。

正法眼藏佛性第三

同四年癸卯正月十九日書寫之 懷弉

爾時仁治二年辛丑十月十四日在雍州觀音導利興聖寶林寺示衆

再治御本之奥書也

正嘉二年戊午四月二十五日以再治御本交合了

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正法眼藏第三 佛性 · 5 · Shōbōgenzō (Tesoro del ojo del verdadero Dharma) — Dōgen · The Conscious Library