Skip to content
The ConsciousLibrary

Chapter 49 of 122

正法眼藏第三十五 神通

かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり。これに六神通あり、一神通あり。無神通あり、最上通あり。朝打三千なり、暮打八百なるを爲體とせり。與佛同生せりといへども佛にしられず、與佛同滅すといへども佛をやぶらず。上天に同條なり、下天にも同條なり、修行取證、みな同條なり。同雪山なり、如木石なり。過去の諸佛は釋迦牟尼佛の弟子なり、袈裟をささげてきたり、塔をささげきたる。このとき釋迦牟尼佛いはく、諸佛神通不可思議なり。しかあればしりぬ、現在未來も亦復如是なり。

大潙禪師は、釋迦如來より直下三十七世の祖なり、百丈大智の嗣法なり。いまの佛祖、おほく十方に出興せる、大潙の遠孫にあらざるなし、すなはち大潙の遠孫なり。

大潙あるとき臥せるに、仰山來參す。大潙すなはち轉面向壁臥す。

仰山いはく、慧寂これ和尚の弟子なり、形迹もちゐざれ。

大潙おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、大潙召して寂子とめす。

仰山かへる。

大潙いはく、老僧ゆめをとかん、きくべし。

仰山かうべをたれて聽勢をなす。

大潙いはく、わがために原夢せよ、みん。

仰山一盆の水、一條の手巾をとりてきたる。

大潙つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香嚴きたる。

大潙いはく、われ適來寂子と一上の神通をなす。不同小小なり。

香嚴いはく、智閑下面にありて、了了に得知す。

大潙いはく、子、こころみに道取すべし。

香嚴すなはち一椀の茶を點來す。

大潙ほめていはく、二子の神通智慧、はるかに鶖子目連よりもすぐれたり。

佛家の神通をしらんとおもはば、大潙の道取を參學すべし。

不同小小のゆゑに、作是學者、名爲佛學、不是學者、不名佛學(是の學を作す者を名づけて佛學と爲し、是の學にあらざれば佛學と名づけず)なるべし。嫡嫡相傳せる神通智慧なり。さらに西天竺國の外道二乘の神通、および論師等の所學を學することなかれ。

いま大潙の神通を學するに、無上なりといへども、一上の見聞あり。いはゆる臥次よりこのかた、轉面向壁臥あり、起勢あり、召寂子あり、説箇夢あり、洗面了纔坐あり、仰山又低頭聽あり、盆水來、手巾來あり。

しかあるを、大潙いはく、われ適來寂子と一上の神通をなすと。

この神通を學すべし。佛法正傳の祖師、かくのごとくいふ。説夢洗面といはざることなかれ、一上の神通なりと決定すべし。すでに不同小小といふ、小乘小量小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。かれらみな小神通をならひ、小身量のみをえたり。佛祖の大神通におよばず。これ佛神通なり、佛向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外にうごかざるべからざるなり。經師論師いまだきかざるところ、きくとも信受しがたきなり。二乘外道經師論師等は小神通をならふ、大神通をならはず。諸佛は大神通を住持す、大神通を相傳す。これ佛神通なり。佛神通にあらざれば、盆水來、手巾來せず。轉面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。

この大神通のちからにおほはれて、小神通等もあるなり。大神通は小神通を接す、小神通は大神通をしらず。小神通といふは、いはゆる毛呑巨海、芥納須彌なり。また身上出水、身下出火等なり。又五通六通、みな小神通なり。これらのやから、佛神通は夢也未見聞在なり。五通六通を小神通といふことは、五通六通は修證に染汚せられ、際斷を時處にうるなり。在生にありて身後に現ぜず、自己にありて他人にあらず。此土に現ずといへども他土に現ぜず。不現に現ずといへども、現時に現ずることをえず。

この大神通はしかあらず。諸佛の教行證、おなじく神通に現成せしむるなり。ただ諸佛の邊に現成するのみにあらず、佛向上にも現成するなり。神通佛の化儀、まことに不可思議なるなり。有身よりさきに現ず、現の三際にかかはれぬあり。佛神通にあらざれば、諸佛の發心修行菩提涅槃いまだあらざるなり。いまの無盡法界海の常不變なる、みなこれ佛神通なり。毛呑巨海のみにあらず、毛保任巨海なり、毛現巨海なり、毛吐巨海なり、毛使巨海なり。一毛に盡法界を呑却し吐却するとき、ただし一盡法界かくのごとくなれば、さらに盡法界あるべからずと學することなかれ。芥納須彌等もまたかくのごとし。芥吐須彌および芥現法界、無盡藏海にてもあるなり。毛吐巨海、芥吐巨海するに、一念にも吐却す、萬劫にも吐却するなり。萬劫一念、おなじく毛芥より吐却せるがゆゑに。毛芥はさらになによりか得せる。すなはちこれ神通より得せるなり。この得、すなはち神通なるがゆゑに、ただまさに神通の神通を出生するのみなり。さらに三世の存沒あらずと學すべきなり。諸佛はこの神通のみに遊戲するなり。

龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。江西石頭の兩席に參學せるのみにあらず、有道の宗師おほく相見し、相逢しきたる。あるときいはく、神通竝妙用、運水及搬柴。

この道理、よくよく參究すべし。いはゆる運水とは、水を運載しきたるなり。自作自爲あり、他作教他ありて、水を運載せしむ。これすなはち神通佛なり。しることは有時なりといへども、神通はこれ神通なり。人のしらざるには、その法の癈するにあらず、その法の滅するにあらず。人はしらざれども、法は法爾なり。運水の神通なりとしらざれども、神通の運水なるは不退なり。

搬柴とは、たきぎをはこぶなり。たとへば六祖のむかしのごとし。朝打三千にも神通としらず、暮打八百にも神通とおぼへざれども、神通の現成なり。

まことに諸佛如來の神通妙用を見聞するは、かならず得道すべし。このゆゑに一切諸佛の得道、かならずこの神通力に成就せるなり。しかあれば、いま小乘の出水、たとひ小神通なりといふとも、運水の大神通なることを學すべし。運水搬柴はいまだすたれざるところ、人さしおかず。ゆゑにむかしよりいまにおよぶ、これよりかれにつたはれり。須臾も退轉せざるは神通妙用なり。これは大神通なり、小小とおなじかるべきにあらず。

洞山悟本大師、そのかみ雲巖に侍せりしとき、雲巖とふ、いかなるかこれ价子神通妙用。

ときに洞山叉手近前而立。

又雲巖とふ、いかならんか神通妙用。

洞山ときに珍重而出。

この因緣、まことに神通の承言會宗なるあり。神通の事存凾蓋合なるあり。まさにしるべし、神通妙用は、まさに兒孫あるべし、不退なるものあり。まさに高祖あるべし、不進なるものなり。いたづらに外道二乘にひとしかるべきとおもはざれ。

佛道に身上身下の神變神通あり。いま盡十方界は、沙門一隻の眞實體なり。九山八海、乃至性海、薩婆若海水、しかしながら身上身下身中の出水なり。又非身上非身下非身中の出水なり。乃至出火もまたかくのごとし。ただ水火風等のみにあらず、身上出佛なり、身下出佛なり。身上出祖なり、身下出祖なり。身上出無量阿僧祇劫なり、身下出無量阿僧祇劫なり。身上出法界海なり、身上入法界海なるのみにあらず、さらに世界國土を吐却七八箇し、呑却兩三箇せんことも、またかくのごとし。いま四大五大六大諸大無量大、おなじく出なり沒なる神通なり。呑なり吐なる神通なり。いまの大地虛空の面面なる、呑却なり、吐却なり。芥に轉ぜらるるを力量とせり、毛にかかれるを力量とせり。識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに實歸す。まことに短長にかかはれざる佛神通の變相、ひとへに測量を擧して擬するのみならんや。

むかし五通仙人、ほとけに事奉せしとき、仙人とふ、佛有六通、我有五通、如何是那一通(佛に六通あり、我れに五通あり、如何ならんか是れ那一通)。

ほとけ、ときに仙人を召していふ、五通仙人。

仙人應諾す。

佛言、那一通、爾問我。

この因緣、よくよく參究すべし。仙人いかでか佛に有六通としる。佛有無量神通智慧なり、ただ六通のみにあらず。たとひ六通のみをみるといふとも、六通もきはむべきにあらず、いはんやその餘の神通におきて、いかでかゆめにもみん。

しばらくとふ、仙人たとひ釋迦老子をみるといふとも、見佛すやいまだしや、といふべし。たとひ見佛すといふとも、釋迦老子をみるやいまだしや。たとひ釋迦老子をみることをえ、たとひ見佛すといふとも、五通仙人をみるやいまだしや、と問著すべきなり。この問處に用葛藤を學すべし、葛藤斷を學すべし。いはんや佛有六通、しばらく隣珍を算數するにおよばざるか。

いま釋迦老子道の那一通、爾問我のこころ、いかん。仙人に那一通ありといはず、仙人になしといはず。那一通の通塞はたとひとくとも、仙人いかでか那一通を通ぜん。いかんとなれば、仙人に五通あれど、佛有六通のなかの五通にあらず。仙人通はたとひ佛通の所通に通破となるとも、仙通いかでか佛通を通ずることをえん。もし仙人、佛の一通をも通ずることあらば、この通より佛を通ずべきなり。仙人をみるに佛通に相似せるあり、佛儀をみるに仙通に相似せることあるは、佛儀なりといへども、佛神通にあらずとしるべきなり。通ぜざれば、五通みな佛とおなじからざるなり。

たちまちに那一通をとふ、なにの用かある、となり。釋迦老子のこころは、一通をもとふべし、となり。那一通をとひ、那一通をとふべし、一通も仙人はおよぶところなし、となり。しかあれば、佛神通と餘者通とは、神通の名字おなじといへども、神通の名字はるかに殊異なり。ここをもて、

臨濟院慧照大師云、古人云、如來擧身相、爲順世間情。恐人生斷見、權且立虛名。假言三十二、八十也空聲。有身非覺體、無相乃眞形(臨濟院慧照大師云く、古人云く、如來擧身の相は、世間の情に順ぜんが爲なり。人の斷見を生ぜんことを恐りて、權に且く虛名を立つ。假に三十二と言ふ、八十も也た空しき聲なり。有身は覺體にあらず、無相は乃ち眞形なり)。

儞道、佛有六通、是不可思議。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼、亦有神通、應是佛否。道流莫錯、祗如阿修羅與天帝釋戰、戰敗領八萬四千眷屬、入藕孔中藏。莫是聖否。如山僧所擧、皆是業通依通(儞道ふべし、佛に六通あるは、是れ不可思議なり。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼も亦た神通あり、應に是れ佛なるべしや否や。道流、錯ること莫れ。ただ阿修羅と天帝釋と戰ふが如き、戰敗れて、八萬四千の眷屬を領じて、藕孔の中に入りて藏る。是れ聖なること莫しや否や。山僧の擧する所の如きは、皆是れ業通なり、依通なり)。

夫如佛六通者不然。入色界不被色惑、入聲界不被聲惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入觸界不被觸惑、入法界不被法惑。所以達六種色聲香味觸法、皆是空相、不能繋縛。此無依道人、雖是五蘊漏質、便是地行神道(夫れ、佛の六通の如きは然らず。色界に入つて色に惑はされず、聲界に入つて聲に惑はされず、香界に入つて香に惑はされず、味界に入つて味に惑はされず、觸界に入つて觸に惑はされず、法界に入つて法に惑はされず。所以に六種の色聲香味觸法皆是れ空相なるに達すれば、繋縛すること能はず。此れ無依の道人なり。是れ五蘊漏質なりと雖も、便ち是れ地行神道なり)。

道流、眞佛無形、眞法無相。儞祗麼幻化上頭作模作樣、設求得者、皆是野狐精魅、竝不是眞佛、是外道見解(道流、眞佛は無形なり、眞法は無相なり。儞祗麼に幻化上頭に模を作し樣を作す。設ひ求得すとも、皆な是れ野狐精魅なり。竝びに是れ眞佛にあらず、是れ外道の見解なり)。

しかあれば、諸佛の六神通は、一切諸天鬼神および二乘等のおよぶべきにあらず、はかるべきにあらざるなり。佛道の六通は、佛道の佛弟子のみ單傳せり、餘人の相傳せざるところなり。佛六通は佛道に單傳す、單傳せざるは佛六通をしるべからざるなり。佛六通を單傳せざらんは、佛道人なるべからずと參學すべし。

百丈大智禪師云、眼耳鼻舌、各各不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果。六入無迹、亦名六神通、祗如今但不被一切有無諸法礙、亦不依住知解、是名神通。不守此神通、是名無神通。如云無神通菩薩、蹤跡不可得尋、是佛向上人、最不可思議人、是自己天(百丈大智禪師云く、眼耳鼻舌、各各一切有無の諸法に貪染せず、是を受持四句偈と名づく、亦た四果と名づく。六入無迹なるを、亦た六神通と名づく。祗今但一切有無の諸法に礙へられず、亦た知解に依住せざるが如き、是を神通と名づく。此の神通を守らざる、是を無神通と名づく。云ふが如き無神通菩薩は、蹤跡尋ぬること得べからず、是れ佛向上人なり、最不可思議人なり、是れ自己天なり)。

いま佛佛祖祖相傳せる神通、かくのごとし。諸佛神通は佛向上人なり、最不可思議人なり、是自己天なり、無神通菩薩なり。知解不依住なり、神通不守此なり、一切諸法不被礙なり。いま佛道に六神通あり、諸佛の傳持しきたれることひさし。一佛も傳持せざるなし、傳持せざれば諸佛にあらず。その六神通は、六入を無迹にあきらむるなり。無迹といふは、古人のいはく、六般神用空不空、一顆圓光非内外。非内外は無迹なるべし。無迹に修行し、參學し、證入するに、六入を動著せざるなり。動著せずといふは、動著するもの三十棒分あるなり。

しかあればすなはち、六神通かくのごとく參究すべきなり。佛家の嫡嗣にあらざらん、たれかこのことわりあるべしともきかん。いたづらに向外の馳走を歸家の行履とあやまれるのみなり。又、四果は、佛道の調度なりといへども、正傳せる三藏なし。算沙のやから、跉跰のたぐひ、いかでかこの果實をうることあらん。得小爲足の類、いまだ參究の達せるにあらず。ただまさに佛佛相承せるのみなり。いはゆる四果は、受持四句偈なり。受持四句偈といふは、一切有無諸法におきて、眼耳鼻舌各各不貪染なるなり。不貪染は不染汚なり。不染汚といふは、平常心なり、吾常於此切なり。

六通四果を佛道に正傳せる、かくのごとし。これと相違あらんは佛法にあらざらんとしるべきなり。しかあれば、佛道はかならず神通より達するなり。その達する、涓滴の巨海を呑吐する、微塵の高嶽を拈放する、たれか疑著することをえん。これすなはち神通なるのみなり。

正法眼藏神通第三十五

爾時仁治二年辛丑十一月十六日在於觀音導利興聖寶林寺示衆

寛元甲辰中春初一日書寫之在於越州吉峰侍者寮 懷弉

Use the ← → keys to move between chapters.

正法眼藏第三十五 神通 · Shōbōgenzō (Treasury of the True Dharma Eye) — Dōgen · The Conscious Library